上戸新町関連 | 入間川関連 | 上戸日枝神社関連 | 地蔵堂関連 |
義経正室郷姫(京姫) | 埼玉県営鉄道関連 | 霞ヶ関駅と的場駅 | 霞ヶ関北口竣工式典 | 河越館と常楽寺 | 2枚の古い絵図 | 東山道武蔵路 |
資料が増えましたので、分類しました。
現在上戸新町の歴史のページを作るための資料を募集しています。ありましたら吉田までお送りください。
町村名の変遷 | 上戸新町への町名変更のいきさつ | 自治会名の由来 |
○明治22年4月1日 上戸村他9村が合併し高麗郡名細村となる。 ○明治22年4月1日 的場村他3村が合併し高麗郡霞ヶ関村となる。 ○明治29年4月1日 入間郡名細村、入間郡霞ヶ関村となる。 ○昭和30年4月1日 川越市に編入される。 ○昭和55年9月1日 大字上戸字地蔵堂、大字的場字榎下・福禄塚の各一部より上戸新町が生まれる。 |
私の所も住所は大字的場字榎下でした。上戸新町は上戸と的場が混在してました。或る家では、住所が両方に跨っていた所もあったとのことです。そんなことで、私が昭和54年度の役員で、会長をやっていた時に、新町名にするという話が持ち上がり住友住宅地に住む全戸に、新町名のアンケートを実施して、上戸新町が一番多かったんで決まったという経緯があります。
新町名の線引きする時には、今より広くしたのですが、隣接の
ところで、新町に編入されると建築協定があるので、アパートが建てられなくなるということで、1−Bのポンプ場裏のところ(的場)が除外され、今の区画になりました。
この地区は、当初「川越市大字上戸字地蔵堂」といういかにもローカルな名称でした。
その後、昭和55年初めに地名変更のための住民投票が行われ9月に
「上戸新町」と決まりました。
当初の地名のままの表札を見つけましたので、投稿します。
なお、撮影については、野口さんの了解を得ております。
(鈴木さん提供)
昭和58年に行われた子供祭りの写真です。自治会会長が4Bの藤田さんでした。(吉田提供)
(古い写真を探したら懐かしいのが出てきました。皆様もあると思いますので、見つけて投稿してください。なお、この写真もそうですが、一般の写真もスキャナーで取り込めば簡単にホームページに掲載できます。遠慮なく吉田にお申し付けください。)
あの頃は私も若かったですが、子供たちもあふれんばかりでした。(吉田提供)
住友は住友不動産の分譲地ということから、あおいは川越藩が徳川家のご親藩で、徳川氏の家紋が 葵(あおい)であることからとって初代会長の高橋鉄志さんが 「住友あおい自治会」 と名付けたと聞いています。
我々が日頃散歩や運動で慣れ親しんでいる入間川について資料を集めてみました
入間川は大持山(1294m)南東斜面を源とし、名栗村・飯能市・青梅市(東京都)の山や丘陵から流れ出す水を集め、埼玉県南部を東〜北東へ流れ、川越市で荒川と合流する長さ67.4kmの川です。また、槻(つき)川・都幾川・高麗川などの支流を集めた越辺(おっぺ)川が川島町・川越市境付近で入間川と合流しています。 入間川上流部の秩父山地は、火山がひとつもなく、すべてもとは海底で出来た岩石です。岩石の出来た年代は、古生代後期(約3億5千年前〜約2億5千年前)〜中生代ジュラ紀(約2億年前〜約1億4千年前)で、遠く南の海で生まれました。
縄文海進
氷期には、北米やヨーロッパに大陸氷河が広がり、その氷となった分だけ海水が減ったため、海水面の高さが現在よりおよそ100mも低下していました。その後、気候が温暖化するにつれて大陸氷河が融けて海水面が上昇し、縄文時代の早期末〜前期にかけての約6000年前には、海水面が現在よりも2〜3m高くなりました(縄文海進)。このとき関東平野の奥まで海が入り込み(奥東京湾)、川越市付近にまで
海岸線が及びました。奥東京湾は、利根川や荒川が運んできた土砂の堆積で急速に埋め立てられ、沖積低地(荒川低地や中川低地)が出来ました。縄文中期から晩期にかけて、気候がやや冷涼化し、海水面は現在の高さへと近づきました。
荒川の付け替え
江戸時代の初め、徳川幕府は内陸船運路の整備を主目的として、関東平野を流れる河川の大規模な付け替え事業を行いました。その結果入間川は利根川の支流から荒川の支流へと変えられました。
入間川における渡船場の分布
「7」の渡船場は、現在の平塚橋のあたりです。
「8」の渡船場は、現在の雁見橋のあたりです。
「9」の渡船場は、現在の川越橋のあたりです。
「10」の渡船場は、現在の初雁橋のあたりです。
渡船場
幅の広い川は人間が徒歩で自由に往来できにくいため、時として情報の伝達が阻害されたり、物資の移送が滞るなど生活に支障をきたす障害にもなっていました。
この障害を取り除き、あるいは克服するためには橋を架けて往来を利便にしなくてはなりませんでした。しかし、明治時代頃までは洪水でも破壊されない万年橋や永久橋を建設することに技術的にも未熟であったし、ましてや江戸時代には軍事防衛上の理由などで橋を架けない川も多くありました。
このため、多くの川では川舟や人足を配置した渡し場を各所に作り、川の往来を補ったのです。
入間川では江戸時代から大正時代頃まで、20ケ所に及ぶ渡し場があって、渡し賃を徴収して人や馬などを、渡船や板橋で渡す方法が行われました。
入間川を下る筏
昔このような筏が、盛んに入間川を下っていたとは、今から見ると夢のような光景です。
西川林業
江戸時代以降、入間川上流の村々では、山から切り出した木材を、筏に組み、江戸(東京)に盛んに流送していました。消費地である江戸から見ると「西の川筋から流されてくる木材」なので、「西川材」と呼ばれるようになったと言われています。
現在の西川林業地帯は飯能市と名栗村を中心として越生町、毛呂山町、日高市などにひろがっています。この地域のおよそ2万ha.に及ぶ山林は、小規模とはいえ、大消費地である江戸に近い林業地の1つでした。たび重なる江戸の災害にその復興材を送るためにも、また、日常生活の必需品である炭や薪を供給するためにも、入間川を利用し筏による流送ができるという輸送面で適した位置にあったことが、西川林業を発達させた大きな要因です。
下川・・・飯能河原から下流の荒川と合流するあたりまでを「下川」と呼びました。
小ケ谷の橋
川越市小ケ谷付近(現在の川越橋付近)
明治〜大正 田村源次郎氏撮影川越市立博物館提供
入間川に架けられた木橋の景色で、歩いている人もどことなくのどかな雰囲気である。
川越橋が出来る前の冠水橋によく似ているのに驚かされます。
入間川での水泳
川越市小ケ谷(現在の東武東上線の鉄橋付近) 大正15年 (1926年)頃 川越市立博物館提供
まだプールがなかった頃、小ケ谷付近の入間川に水泳場が開設されて、多くの人で賑わった。学校での水泳の授業もここで行われたようである。
入間川に架かる東武鉄道の鉄橋付近には、臨時の停車場もできた。
旧東上鉄道入間川鉄橋跡
大正3年(1914)、池袋〜川越間を結んで開通した東上鉄道(現東武東上線)は、大正5年に坂戸まで延長されます。このレンガ積みの橋脚は、この時造られた入間川鉄橋の名残です。
皆様ご存知のように、あおい公園の東にあります。
上戸日枝神社
当社は、河越氏が京都の新日吉(いまひえ)社を勧請したものといわれています。文応元年(1260年)には河越経重により銅鐘(養寿院蔵・重文)が奉納されました。また室町時代の製作と思われる銅造三尊懸仏(市・工芸品)が残されています。
銅造三尊懸仏 川越市上戸日枝神社蔵
上戸の日枝神社は、国指定史跡の河越館跡にほど近く、またかっては新日吉山王権現と称していたことなどから、河越氏が京都の新日吉社(いまひえしゃ)から勧請したものと考えられている。この懸仏は鏡面には三尊を鋳出しており、これは本社の本地仏を表していると考えられる。
懸仏の世界
懸仏(かけぼとけ)は、神仏習合思想が盛んになる平安時代後期に成立し、中世を通じて各地で数多く造られました。一般に懸仏とは、全体の形状が円形で、その表面に立体的な像を付け、吊鐶などにより懸垂して礼拝できるように造られた物です。懸仏という名称はその形態と用途に由来しますが、もとは「御正体(みしょうたい)」と呼ばれていました。御正体とは神の正体、本体という意味で、神仏習合思想の本地垂迹説では、衆生救済のためにこの世に姿を変えて現れたのが神で、その神の本体が仏であるとされました。そのため神の依代(よりしろ)とされることの多かった鏡に仏像を配し御正体として神社に祭られました。日本における神仏の習合が懸仏という造形を生み出したといえるでしょう。
参考資料
・入間川再発見 埼玉県西部地域博物館入間川展合同企画協議会
・川越の地名調査報告書(1) 川越市教育委員会
地蔵堂の地名の由来(鈴木さん提供)
地蔵堂の地名の由来は、町の北東の土手沿いにある
写真の祠であることが判りました。
この地蔵堂の地名の由来について、高宮さんと金子さんから、昭和58年6月15日発行の自治会報の記事「石の地蔵さん」を提供していただきました。以下にそれを掲載します。
石の地蔵さん
上戸新町の東北端つまり東上線地下道を出て、道なりに田辺商店(現在は明治牛乳)横を入間川に向かい、土手に突き当たるところ、右側の一角に木立がある。僅かに小高い、野いばらなどかきわけて入ってみると六十糎ばかりの石の地蔵さんが一人、その中程にポツネンと立っている。今はもう目鼻立ちも定かでなく、刻んだ文字も傷んでいるが、いつみても団子や菓子、花など絶えることがない。
一体このお地蔵さんはどんなお地蔵さん?
この地の人たちは「夜泣き地蔵」と呼び今に深い信心の的になっている。時には川向こうからもやってくるとか。習わしによると初めに泥だんごを供え、御利益の暁に本物のだんごをお供えするのだという。
調べてみると供養大願主が森禄兵衛、願主加藤三郎兵衛という人、宝永二年(1705)というから約二八〇年もの昔のこと。その人達にどんな悲しみ哀れがあったかは知る由もないが、嬰児の霊でも供養したのだろうか。
この地区の大部は以前上戸の小字地蔵堂という所、つまり字名のいわれはこのお地蔵さんにあったわけです。町名としては残らなかった、が然し二八〇年もの永い間ひっそりと生き続けてきたもの、この辺には他にありません。皆で大切にしたいですね。(上戸、吉田長寿氏外にきく)
かって霞ヶ関駅からは鉄道が伸びていた。
その幻の鉄道は、1920年入間川の川砂利を運搬するのが目的の専用鉄道として民間で敷設された路線だった。
その後、埼玉県が買収し「埼玉県営鉄道」として運営し、霞ヶ関駅から同市的場地内の入間川河川敷を結んだ営業路線距離2.4km、霞ヶ関駅(当時は的場駅と呼称)から先は途中川越線をアンダークロスする以外には、特に施設らしい施設もなく、ひたすら田畑の中を南へ下り、入間川に横付けするように河川敷の砂利採取場へ入っていた。
霞ヶ関駅には川越寄りに専用の側線と砂利集積場が用意され、そこに県営鉄道が接続される形になっていた。
「埼玉県営鉄道」では、最後の数年間を除いて蒸気機関車が用いられていた。全部で3両の在籍が確認されているが、最後まで残ったのは2両であった。蒸気機関車の廃車後、廃止まで2両の内燃機関車を用いていた。
貨車は小型のトロッコが160両ほど在り、小さな正方形の台枠に頑丈な木箱を乗せただけの簡便なものであった。
県営砂利採取事業は、戦後になると枯渇を起こす採取場も出始め、当線が使っていた採取場がまさにそれで、採掘量が減ったために、鉄道を使うまでもなくなって次第にトラック輸送へ移行し、鉄道による運搬は漸減した。
砂利採取事務所は1957年に当線の廃止を決定し、「埼玉県営鉄道」はひっそりと35年間の歴史に幕を下ろすことになったのである。1970年11月1日に廃止された。
その後の霞ヶ関・的場地区の急速な住宅地化により廃線跡は完全に消滅しており、霞ヶ関駅の側線が「かすみ自動車教習所」の敷地の一部となっている、ということ以外には満足に跡地を比定できない状態である。川越線をアンダークロスしていた部分のコンクリートのガードが現役で残されているのが唯一の遺構である。 (高宮さん提供資料)
参考文献 ウィキペディア他
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大正5年開通の霞ヶ関駅
現在の東武東上線は、山梨県出身でいわゆる甲州財閥の巨頭といわれた根津嘉一郎等が発起人となって創立された東上鉄道会社(資本金四百五十万円)によって完成されたものである。
大正元年(1912)十一月に工事が開始され、第一期線として池袋〜田面沢(たのもさわ)間が同三年五月に開通した。田面沢というのは小室、今成、小ケ谷、野田新田の各村と野田村の一部が合併して出来た村名で、昭和十四年に川越市へ合併されるまでこの名があり、小ケ谷に駅を設置したのでつけられた駅名である。しかし後にはこの駅は廃止されたので現在は残っていない。
現在の霞ヶ関駅は第二期線として、大正五年(1916)十月二七日に開通したものだが、最初の駅名は「的場駅」と称した。的場の有力者だった富田仁平次、水村喜平治、岸弥吉等が熱心な誘致運動を行い、駅の敷地を字的場だけで資金を出し合って購入し、会社へ提供して現在の場所へ設置させたものだという。
最初会社の路線案はずっと名細村字上戸の方へ寄っていたというが、この案だと上戸の者たちの居宅を移転させなければならないのと、的場のものが熱心に働きかけたので、的場の現在の場所へ決定したものである。このように霞ヶ関村全体でなく、字的場の者だけで運動してできた駅なので、駅名も当然「的場」となったわけである。
水村氏や富田氏等的場の有力者が鉄道の誘致に熱心だったのは、川越が鉄道の開通に消極的だったために次第に町が衰退していくのをまのあたりに見てきたこともあるが、当時的場周辺は養蚕、織物、茶業、製糸などが盛んで、それらを背景にして的場銀行を経営していたため、八王子の織物商人たちと取引があったことがあげられている。
八王子の商人たちは自ら鉄道会社甲武鉄道を創設して明治二十二年(1889)八月に新宿〜立川〜八王子間を開通させて、現在でも「八王子街道」の名前が残っているとおり、それまで川越方面を経由して、荷物を送り出していたのを東京へ直接出すようにしてしまったのである。現在のJR中央線の前身である。
彼らは会うたびに「これからの商いは、鉄道と電信だ」といわれ、鉄道の建設を熱心にすすめたので、積極的な誘致運動をするようになったとも聞いている。開通式には砂利採取を行っていた木村組の松田氏が川越から芸者を大勢呼んで賑やかに行ったという。
駅名変更に筵旗で抗議
ところが笠幡に霞ヶ関カンツリー倶楽部が設立されると、鉄道の方では昭和五年一月十四日より駅名を的場から「霞ヶ関」とかってに換えてしまった。
理由については確実なことはわからないが、社長の根津嘉一郎が上記倶楽部の有力会員だったため、的場よりも倶楽部の名称にいただいた霞ヶ関という村名の方がゴルフをやりにくる会員にわかりやすいと判断したからとも、当時は西武鉄道の入間川駅を利用する会員もかなりいたのでそちらへお客をとられないようにゴルフ場のある村名をとって駅名にしたとも、いろいろに伝えられている。
しかし駅の敷地を購入してまでも会社へ提供した的場のものにとっては、煮え湯を飲まされたようなものだ。かんかんに怒った的場の、特に血気盛んな青年団は、筵旗を押し立てたりビラを作って配ったりして鉄道や倶楽部の創立者の一人である発智庄平等に抗議した。
ビラには「発智父子を葬れ!」「彼に黄金の力あれば、我に正義の剣(つるぎ)あり」の激烈な文字が書き連ねられ、発智氏の家があった笠幡字倉ケ谷戸の家の前で、配ったりして気勢をあげたりした。警察でも捨てておくわけに行かず、とりあえず「葬れ」と「剣」ということばは不穏当なので、使用しないようにと注意したので、青年団も筵旗やビラから削除した。
的場のものから糾弾された「発智父子」は駅の改名には、ある程度は関係していたかもしれないが、先に述べたとおり積極的には参加していなかったらしい。しかし的場の者からみればゴルフ場を誘致し、個人で多額の資材を投入して完成させたことは事実なので、上記のように的場の者から憤激を受けたものであろう。
鉄道のほうでは一度改名したものは、そう簡単に元へもどすわけにもいかずしばらく静観していたが、そのうちに反対運動も鎮静化してきたのでほっとしたそうである。
川越線昭和十五年に開通
国鉄川越線が全線開通したのは昭和十五年七月二十二日と、本市を通っている鉄道の中では新しいが、計画の段階からみるとかなり古くから考えられていた路線だった。
最初は市内大字豊田新田出身の衆議院議員福田久松が明治三十四年(1901)第十五議会に、大宮〜川越〜八王子間に鉄道連絡を実現すべき旨の建議を提出しようとして、川越町で川越商工会議所の中に「大宮・八王子間鉄道連絡ニ関スル件調査委員会」を設置して検討を始めた。
しかしこの時は時期を得ていないということで見送られ、むしろ成田鉄道会社で建設中の成田〜吾孫子間の第一期線に続いて、第二期線として予定されていた吾孫子〜川越間の実現を早期にはかるべきであるとされ、「吾孫子川越間鉄道速成ニ関スル意見書」を提出したのである。
しかしこの第二期線は結局実現しないで終わってしまった。その後大正期に入り国鉄八高線の敷設が計画されたのを契機にして、大宮と八王子を結ぶ国鉄線敷設運動が高まったのである。昭和に入るとさらに高まり昭和二年十一月国有鉄道敷設期成同盟会が川越市、川越商工会議所、川越商工会を中心に結成され、全市一丸となって取り組むことになったのである。
かって川越は鉄道建設には極めて消極的で、前記のように福田久松が努力したにもかかわらず積極的な対応をとらなかったが、今度全市を上げて国鉄線開通実現へ向けて進むことになったわけである。
政府や鉄道当局もこうした地元の熱心な運動に耳を傾けるようになったが、特に陸軍が国防上の見地からこの路線を注目するようになった。東海道線が敵の艦砲射撃や爆弾で寸断されたとき、速やかに内陸部へ武器・弾薬・兵員を輸送するためには、川越を中間地点として大宮と八高線を結ぶ鉄道路線が是非とも必要だと判断されるようになったからである。
直ちに第六議会(昭和八年十二月二十六日〜九年三月二十五日)にこの鉄道の建設案は上程され、もちろん両院を通過した。こうして国鉄線を一本でもよいから敷設したいという、川越経済界の願いは達せられたのである。
昭和九年から用地買収にかかり十二年度中に完成する予定だったが、川越から八高線にいたる路線の位置が、沿線の村々の利害がからんでなかなか決まらなかったため、大幅に遅れてしまい最終的に高麗川まで開通したのは、最初に述べたように昭和十五年だった。
水没した的場駅
こうして霞ヶ関村には的場駅と笠幡駅の二つの駅ができた。この当時は現在と違って沿線住民の意見を聞いたり詳しく調査したりせず、いわば地図の上へ線を引いてその該当部分を買収して、線路を設置していくというやり方だったから何かとトラブルがあった。
とくに的場駅は的場でも一番の低地で、地元の人々が排水施設のない当時としては、駅を設置するのは地形的に不適当だと関係者に何回も勧告したが、全然取り合おうとせず「軍の至上命令だ」とか「工期が遅れた」とか言って予定通り強行してしまった。
ところが開通した翌年の昭和十六年、川越地方は記録的な大洪水に見舞われた。平塚や平塚新田が全部水没してしまったときである。すり鉢の底のような所へ作った駅は、すっぽり水面の下になってしまいもちろん列車は通れない。平塚新田など他の地域はどんどん水が引いていくのに、的場駅付近はいつまでたっても一向に引かない。船でなくては往来できなくなってしまった。
周辺の家もすっかり水没してしまい、中には蔵の中へも水が入ってしまい四十年もたった現在でも中が湿っていて使えないものもあるという。霞ヶ関村では鉄道省へ何回も陳情して、一日も早く恒久的な排水施設の設置を要望した。国鉄でも開通後わずか一年で、水没して使えなくなるようでは、軍事的性格の強い路線なだけに由々しい問題である。
さっそく関係者を糾合して調査し、直径一mぐらいの大きな鉄管を敷設して排水路を作り、やっとのことで溜まっていた水を排水できたのである。川越線は「川越に国鉄線を」という
川越市民多年の願望がかなえられた鉄道だったが、成立のいきさつが軍事面のウエートが大きかったから聊(いささ)か速成の感があり、上記のように水没してしまったり、古谷本郷では寺の真中へ線路を通して墓地と本堂を分割してしまったからか、夜な夜なお化けがでるといううわさがたって近くの灌頂院で法要を営むさわぎとなったりして、なにかとトラブルがたえなかった路線だった。
参考資料
川越の歴史散歩 霞ヶ関・名細編 新井博著
現在の三芳野旧跡之碑 | 現在の牛塚古墳 |
昔々(奈良時代),東山道武蔵路という当時の一級国道が武蔵国を南北に縦断して作られていました。この道は幅が12mもあり、上戸新町の近くを通っていたそうです。関東地方の当時の道路図を示します。
古代の地理的行政区分として、畿内五国に、東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の五畿七道がありました。
また七道は地域呼称であると同時に、都から地方に伸びる道路の名称でもあったのです。
このような行政区は天武朝(672〜686)頃に成立したと考えられているようで、当時の都は飛鳥浄御原宮でした。
東山道は都から東の山間部の行政区とその官道をいいます。平安時代の『延喜式』によると、東山道に属する国は、近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽の八カ国です。
武蔵国は『延喜式』では東海道に属していますが、奈良時代の宝亀2年(771)に東山道から東海道に所属替えされたことが、『続日本紀』の記事で確認されています。
武蔵国が奈良時代の末期以前には東山道に属していたことから、武蔵国は東山道経由で都と繋がれていたわけなのです。この東山道時代の武蔵国への官道(駅路)を当時どのように呼ばれていたかはわかりませんが、現在では「東山道武蔵路」と一般に呼ばれています。
図にある様に東山道武蔵路は上野国の新田駅付近から本道と分かれて邑楽郡(おうらぐん)を通り武蔵国に入ります。
そして五つの駅家を経て武蔵国府に到り、再び同ルートを北上して下野国足利駅で東山道に合流したものと考えられています。上野国新田駅より武蔵国府中まで、この間の距離約80キロメートルです。
「画像をクリックすると、拡大表示されます」
この道路遺構は、両側に側溝をともない、側溝間の芯々距離12メートルです。道路遺構は過去に確認されたものと合わせると総延長は300メートルに達し、走行方向は真北に対して約10度西に傾いています。
側溝は長い土坑が連続して、幅約1メートルほどに統一されていて直線性を維持し両側溝は平行を保っています。出土遺物から道路の築造年代は7世紀第4四半期と考えられているようです。
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右上が上戸新町。
左下が八幡前・若宮遺跡。
中方の赤いラインが東山道武蔵路。
「画像をクリックすると、拡大表示されます」
遺跡の調査範囲は狭いながらも土坑群・井戸・竪穴住居・掘立柱建物・柱穴列などが確認されています。奈良時代の土坑群から出土したのが「驛長」と書かれた土師器杯です。 その他にも開口部の直径が10メートルもある井戸跡では、出土遺物から奈良時代から平安時代までの200年間も使用されたことがわかり、この井戸からは関東ではあまり出土例が少ない木簡が発見されていて、この木簡は酒造りに係わる珍しいものだそうです。 ここは所沢市の東の上遺跡から16キロのところに位置していて、「驛長」の墨書土器や大きな井戸などにより、この付近に武蔵国府から三番目の駅家があったと想定されています。
*驛長とは、中央と地方の間の情報伝達のために設けられた緊急通信制度である駅制によって、国の官路である駅路にそって30里(約16キロ)ごとにおかれた駅家の長のことです。駅家を利用する国の使者である駅使は、駅家で食事・休息・宿泊のサービスを受け、馬の供給を受けました。
今までご紹介してきたように、1300年も前に幅12メートルの道路が、上戸新町のすぐ傍を通っており、朝廷の役人や、諸国の使者、一般の人々が足しげく通行していたようです。我々の悪い癖で、古い時代ほど不自由な生活をしていたと思いがちですが、道路に関しては、明治以前では一番整備されていたようです。当時を思うと古代のロマンにひたれるようです。
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