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上戸新町周辺の民話

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大榎の話 地蔵様とどろだんご 京塚哀話

大榎の話

現在の上戸新町の一郭に、昭和40年代まで「榎塚」と呼ばれる塚があり、大きな榎の古木が立っていた。子供が5〜6人で手をつないでも抱えきれないほどの幹の太さだった。昔は、木の下は昼も薄暗く、畑仕事に行き来する農家の人達も、怖がって、夕方は早めに通ってしまうように心がけるというほどだったと言う。
村の年寄りたちは、「あの榎は、この辺りが海だった頃の大昔から生えていた木だったそうだ。今でも、その頃の貝の殻が周りに残っている。」と言っていたが、そう言えば、傷みかかった根の辺りに、いつも海の貝の殻がいくつも落ちていた。
この榎については、木の回りを三回回ると死んでしまうとか、白い衣装をまとった女が出る、夜になると、その女の泣く声がするなど、いろいろな言い伝えがあって、村人たちは気味悪がっていた。
また、一方、回りの農地は、大きく茂った木の日陰になって、農作物が良く取れないという悩みがあり、農家の人達は何とかこの木を切ってしまおうと、何回となく山師を頼んだが、その度に、山師が木から落ちて死んだり、病気にかかったりして、木を切る人はいなかった。しかし、その後、度胸のいい人が現れて、「そんな話は迷信だ。」とばかり、榎を切ってしまった。ところが、その人も、間もなく病気になって亡くなってしまったという。
今では、榎塚のあった所も住友団地内の道路の下になって、大榎にかかわる話も忘れられてしまった。

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地蔵様とどろだんご

クリックすれば大きくなります 上戸地区の入間川堤の下に、小さな地蔵様が立っているが、昔、この地蔵様には、どろだんごを供えて願をかける人が絶えなかった。
子供の夜泣きや病気、家庭不和や悩み事など、いろいろな願い事をかなえてもらうと、人々は、今度はほんとうのだんごのほか、米やご飯、もち、ぼたもちなどを持って、お礼参りにやって来た。
地蔵様にしてみれば、どろのだんごでは食べられないから、早く願い事をかなえてやって、おいしいものを供えてもらおうとなさったというわけである。
ちなみに、1月14日の「だんごさし」(まゆ玉だんご)の時には、この地蔵様にもだんごを供える人が多かったと言う。


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京塚哀話

上戸の常楽寺の南方、入間川の土手に近いところに、かって「京塚」と呼ばれる小高い塚があり、小さな森になっていた。源義経の正室京姫の霊を慰めるための塚であったと言われる。
京姫は、河越太郎重頼の娘で、17歳のとき、義経の兄頼朝の計らいで京都の義経のもとへ嫁いだが、頼朝・義経兄弟の不和による悲劇の渦中に巻き込まれ、22歳の若さで世を去った薄幸の姫である。
文治元年(1185年)、平家を打ち破った頼朝は、鎌倉に幕府を開く準備を進めていたが、後白河法皇の策謀もからんで、弟義経との不和は決定的なものとなり、ついに義経追討の院宣が下される。
義経は京都を追われ、弁慶ら数人の従者と共に、奥州の藤原秀衡を頼って苦難の旅に出るが、ようやくたどり着いた平泉で、4年後、31年の悲運の生涯を終えることになる。
京姫は、頼朝方の目を避けて、義経主従とは別に夫の後を追う。
やっと懐かしい川越まで来たが、生家を訪ねることもできない。それどころか、久しぶりの故郷に気がゆるんだためか、急に重い病気にかかってしまった。熱が高く、食べ物は全くのどを通らない。そのうち、うわ言を言うようになってしまった。ただ一人姫に付き添ってきた乳母が、涙ながらに言い残すことはないかと尋ねると、姫は、苦しい息の下から「平泉へ行きたい。」とかすかに答えたと言う。
こうして、京姫は22歳で短い生涯を閉じた。京塚は、この京姫を葬る墓だと言い伝えられた。
歴史上では、京姫は、義経主従の一行と逃避行を共にしたが、途中で行方不明となる。その後どうにか平泉へたどり着いて義経と再開するが、この安住の地も長くは続かず、義経が衣川の館で自刃する際、姫と4歳になる娘を刺してから自らの命を絶ったと言われる。
いずれにせよ、河越太郎重頼の館のあった上戸やその近隣の人々が、若く美しい京姫の悲しい生涯を哀れんで、姫の霊をねんごろに弔ったのが京塚であったことは間違いあるまい。

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