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上戸新町の歴史

興味ある項目をクリックしてください。
上戸新町関連入間川関連 上戸日枝神社関連 地蔵堂関連
義経正室郷姫(京姫) 埼玉県営鉄道関連 霞ヶ関駅と的場駅 霞ヶ関北口竣工式典
河越館と常楽寺 2枚の古い絵図 東山道武蔵路

資料が増えましたので、分類しました。

現在上戸新町の歴史のページを作るための資料を募集しています。ありましたら吉田までお送りください。

上戸新町関連

町村名の変遷 上戸新町への町名変更のいきさつ 自治会名の由来

上戸および的場の町村名の変遷
○明治22年4月1日 上戸村他9村が合併し高麗郡名細村となる。
○明治22年4月1日 的場村他3村が合併し高麗郡霞ヶ関村となる。
○明治29年4月1日 入間郡名細村、入間郡霞ヶ関村となる。
○昭和30年4月1日 川越市に編入される。
○昭和55年9月1日 大字上戸字地蔵堂、大字的場字榎下・福禄塚の各一部より上戸新町が生まれる。

上戸新町への町名変更のいきさつ(岩永氏談)

私の所も住所は大字的場字榎下でした。上戸新町は上戸と的場が混在してました。或る家では、住所が両方に跨っていた所もあったとのことです。そんなことで、私が昭和54年度の役員で、会長をやっていた時に、新町名にするという話が持ち上がり住友住宅地に住む全戸に、新町名のアンケートを実施して、上戸新町が一番多かったんで決まったという経緯があります。
新町名の線引きする時には、今より広くしたのですが、隣接の ところで、新町に編入されると建築協定があるので、アパートが建てられなくなるということで、1−Bのポンプ場裏のところ(的場)が除外され、今の区画になりました。

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昭和50年頃の霞ヶ関駅です.(高宮さん提供)


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昭和50年頃の分譲時の住友あおい団地です.(高宮さん提供)


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現在の上戸新町の航空写真です(鈴木さん提供)


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富士山の写真です.(鈴木さん提供)


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この地区は、当初「川越市大字上戸字地蔵堂」といういかにもローカルな名称でした。 その後、昭和55年初めに地名変更のための住民投票が行われ9月に 「上戸新町」と決まりました。 当初の地名のままの表札を見つけましたので、投稿します。 なお、撮影については、野口さんの了解を得ております。 (鈴木さん提供)


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昭和58年に行われた子供祭りの写真です。自治会会長が4Bの藤田さんでした。(吉田提供)


(古い写真を探したら懐かしいのが出てきました。皆様もあると思いますので、見つけて投稿してください。なお、この写真もそうですが、一般の写真もスキャナーで取り込めば簡単にホームページに掲載できます。遠慮なく吉田にお申し付けください。)


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あの頃は私も若かったですが、子供たちもあふれんばかりでした。(吉田提供)


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自治会名の由来(岩永氏談)>

住友は住友不動産の分譲地ということから、あおいは川越藩が徳川家のご親藩で、徳川氏の家紋が 葵(あおい)であることからとって初代会長の高橋鉄志さんが 「住友あおい自治会」 と名付けたと聞いています。

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入間川関連

我々が日頃散歩や運動で慣れ親しんでいる入間川について資料を集めてみました

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入間川4市1村 概略図


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入間川は大持山(1294m)南東斜面を源とし、名栗村・飯能市・青梅市(東京都)の山や丘陵から流れ出す水を集め、埼玉県南部を東〜北東へ流れ、川越市で荒川と合流する長さ67.4kmの川です。また、槻(つき)川・都幾川・高麗川などの支流を集めた越辺(おっぺ)川が川島町・川越市境付近で入間川と合流しています。 入間川上流部の秩父山地は、火山がひとつもなく、すべてもとは海底で出来た岩石です。岩石の出来た年代は、古生代後期(約3億5千年前〜約2億5千年前)〜中生代ジュラ紀(約2億年前〜約1億4千年前)で、遠く南の海で生まれました。

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縄文海進


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縄文海進
氷期には、北米やヨーロッパに大陸氷河が広がり、その氷となった分だけ海水が減ったため、海水面の高さが現在よりおよそ100mも低下していました。その後、気候が温暖化するにつれて大陸氷河が融けて海水面が上昇し、縄文時代の早期末〜前期にかけての約6000年前には、海水面が現在よりも2〜3m高くなりました(縄文海進)。このとき関東平野の奥まで海が入り込み(奥東京湾)、川越市付近にまで 海岸線が及びました。奥東京湾は、利根川や荒川が運んできた土砂の堆積で急速に埋め立てられ、沖積低地(荒川低地や中川低地)が出来ました。縄文中期から晩期にかけて、気候がやや冷涼化し、海水面は現在の高さへと近づきました。

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荒川の付け替え


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荒川の付け替え
江戸時代の初め、徳川幕府は内陸船運路の整備を主目的として、関東平野を流れる河川の大規模な付け替え事業を行いました。その結果入間川は利根川の支流から荒川の支流へと変えられました。

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入間川における渡船場の分布
「7」の渡船場は、現在の平塚橋のあたりです。
「8」の渡船場は、現在の雁見橋のあたりです。
「9」の渡船場は、現在の川越橋のあたりです。
「10」の渡船場は、現在の初雁橋のあたりです。


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渡船場
幅の広い川は人間が徒歩で自由に往来できにくいため、時として情報の伝達が阻害されたり、物資の移送が滞るなど生活に支障をきたす障害にもなっていました。 この障害を取り除き、あるいは克服するためには橋を架けて往来を利便にしなくてはなりませんでした。しかし、明治時代頃までは洪水でも破壊されない万年橋や永久橋を建設することに技術的にも未熟であったし、ましてや江戸時代には軍事防衛上の理由などで橋を架けない川も多くありました。 このため、多くの川では川舟や人足を配置した渡し場を各所に作り、川の往来を補ったのです。 入間川では江戸時代から大正時代頃まで、20ケ所に及ぶ渡し場があって、渡し賃を徴収して人や馬などを、渡船や板橋で渡す方法が行われました。

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入間川を下る筏
昔このような筏が、盛んに入間川を下っていたとは、今から見ると夢のような光景です。


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西川林業
江戸時代以降、入間川上流の村々では、山から切り出した木材を、筏に組み、江戸(東京)に盛んに流送していました。消費地である江戸から見ると「西の川筋から流されてくる木材」なので、「西川材」と呼ばれるようになったと言われています。
現在の西川林業地帯は飯能市と名栗村を中心として越生町、毛呂山町、日高市などにひろがっています。この地域のおよそ2万ha.に及ぶ山林は、小規模とはいえ、大消費地である江戸に近い林業地の1つでした。たび重なる江戸の災害にその復興材を送るためにも、また、日常生活の必需品である炭や薪を供給するためにも、入間川を利用し筏による流送ができるという輸送面で適した位置にあったことが、西川林業を発達させた大きな要因です。
下川・・・飯能河原から下流の荒川と合流するあたりまでを「下川」と呼びました。

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小ケ谷の橋
川越市小ケ谷付近(現在の川越橋付近)
明治〜大正 田村源次郎氏撮影川越市立博物館提供
入間川に架けられた木橋の景色で、歩いている人もどことなくのどかな雰囲気である。
川越橋が出来る前の冠水橋によく似ているのに驚かされます。


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クリックすれば大きくなります 入間川での水泳
川越市小ケ谷(現在の東武東上線の鉄橋付近) 大正15年 (1926年)頃 川越市立博物館提供
まだプールがなかった頃、小ケ谷付近の入間川に水泳場が開設されて、多くの人で賑わった。学校での水泳の授業もここで行われたようである。
入間川に架かる東武鉄道の鉄橋付近には、臨時の停車場もできた。


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クリックすれば大きくなります 旧東上鉄道入間川鉄橋跡
大正3年(1914)、池袋〜川越間を結んで開通した東上鉄道(現東武東上線)は、大正5年に坂戸まで延長されます。このレンガ積みの橋脚は、この時造られた入間川鉄橋の名残です。
皆様ご存知のように、あおい公園の東にあります。


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上戸日枝神社関連

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上戸日枝神社
当社は、河越氏が京都の新日吉(いまひえ)社を勧請したものといわれています。文応元年(1260年)には河越経重により銅鐘(養寿院蔵・重文)が奉納されました。また室町時代の製作と思われる銅造三尊懸仏(市・工芸品)が残されています。


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銅造三尊懸仏 川越市上戸日枝神社蔵
 上戸の日枝神社は、国指定史跡の河越館跡にほど近く、またかっては新日吉山王権現と称していたことなどから、河越氏が京都の新日吉社(いまひえしゃ)から勧請したものと考えられている。この懸仏は鏡面には三尊を鋳出しており、これは本社の本地仏を表していると考えられる。


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懸仏の世界
懸仏(かけぼとけ)は、神仏習合思想が盛んになる平安時代後期に成立し、中世を通じて各地で数多く造られました。一般に懸仏とは、全体の形状が円形で、その表面に立体的な像を付け、吊鐶などにより懸垂して礼拝できるように造られた物です。懸仏という名称はその形態と用途に由来しますが、もとは「御正体(みしょうたい)」と呼ばれていました。御正体とは神の正体、本体という意味で、神仏習合思想の本地垂迹説では、衆生救済のためにこの世に姿を変えて現れたのが神で、その神の本体が仏であるとされました。そのため神の依代(よりしろ)とされることの多かった鏡に仏像を配し御正体として神社に祭られました。日本における神仏の習合が懸仏という造形を生み出したといえるでしょう。

参考資料
・入間川再発見 埼玉県西部地域博物館入間川展合同企画協議会
・川越の地名調査報告書(1) 川越市教育委員会

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地蔵堂関連

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地蔵堂の地名の由来(鈴木さん提供)
地蔵堂の地名の由来は、町の北東の土手沿いにある 写真の祠であることが判りました。


この地蔵堂の地名の由来について、高宮さんと金子さんから、昭和58年6月15日発行の自治会報の記事「石の地蔵さん」を提供していただきました。以下にそれを掲載します。


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石の地蔵さん
上戸新町の東北端つまり東上線地下道を出て、道なりに田辺商店(現在は明治牛乳)横を入間川に向かい、土手に突き当たるところ、右側の一角に木立がある。僅かに小高い、野いばらなどかきわけて入ってみると六十糎ばかりの石の地蔵さんが一人、その中程にポツネンと立っている。今はもう目鼻立ちも定かでなく、刻んだ文字も傷んでいるが、いつみても団子や菓子、花など絶えることがない。
一体このお地蔵さんはどんなお地蔵さん?
この地の人たちは「夜泣き地蔵」と呼び今に深い信心の的になっている。時には川向こうからもやってくるとか。習わしによると初めに泥だんごを供え、御利益の暁に本物のだんごをお供えするのだという。
調べてみると供養大願主が森禄兵衛、願主加藤三郎兵衛という人、宝永二年(1705)というから約二八〇年もの昔のこと。その人達にどんな悲しみ哀れがあったかは知る由もないが、嬰児の霊でも供養したのだろうか。
この地区の大部は以前上戸の小字地蔵堂という所、つまり字名のいわれはこのお地蔵さんにあったわけです。町名としては残らなかった、が然し二八〇年もの永い間ひっそりと生き続けてきたもの、この辺には他にありません。皆で大切にしたいですね。(上戸、吉田長寿氏外にきく)

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義経正室郷姫(京姫)について

地蔵さんと郷姫(京姫)
   風聞によるとあの地蔵さんは義経の正室となった河越太郎重頼の娘、郷姫(京姫とも言われる)とその娘(4才)が義経と共に平泉で命を絶ったのでそのことを供養している地蔵さんという説があります。因みにあの地蔵堂を囲む森は常楽寺の土地です。
 また、2006.11.19.に故菊池みのる市会議員が、 自分の故郷、平泉、衣川の雲際寺にあった義経、郷姫、その息女の3人の位牌を、関係者と共に持ち帰りました。
 これは、川越市の行事として“京姫里帰り810年祭”ということで大々的に行われました。
 今回はその義経正室里帰り行事と小説に取り上げられている郷姫(京姫)の話を報告します。(資料提供 山家氏)

義経正室里帰り行事
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1、城と女たち(源平争乱の時代/平泉・衣川の館―義経を恋いしたう女たち)
 義経が都にあって情を通じた女は二十四人にものぼる。そして急追の討伐軍に、西海へのがれようとした義経の船が暴風で難破した時、一つ船に六人の女房と五人の白拍子の計十一人もの女が乗っていたと『義経記』はいう。
 この多彩な女たちの中で、この英雄の悲劇をいろどるのは、静御前であり、郷御前である。  義経が静を見そめたのは、都の神泉苑の池のほとりで、静が母・磯の禅師と雨乞いの舞を奉納した時だという。静は十五歳、義経は二十七歳であった。罪人として追われる寸前であったが、世間はまだ義経の華やかな部分に目を向けていた。白拍子の始祖として後白河法皇の寵愛も受けたという磯の禅師は、義経は鎌倉殿(頼朝)の弟であり、名誉なことだと喜んだ。
 もう一人は『源平盛衰記』に郷御前とある女で、静より一年早く、頼朝の命令で義経の妻となった。武蔵の国の有力御家人・河越重頼の娘で、頼朝の乳母である比企尼の孫娘にあたる。郷はそのとき十七歳であった。彼女は義経の正室ということにもなる。政略結婚のはしりともいってよい結婚だったが、彼女は義経を心から愛する。
 しかし、武士の世の中とは非情である。いや頼朝とは冷徹な男である。河越重頼は頼朝の命令で義経の妻に娘を差し出したのに、やがて義経の縁者ということで重頼は所領を没収され、二年後には命までも奪われた。  難破した船を捨てた義経は女たちをそれぞれの家に帰したが、静だけは伴って吉野山に入る。しかし、そこは女人禁制の地。静を同行することはできなかった。やむなく静に数人の雑色をつけて都へ帰す。ところが雑色は、静から金品を奪って逃げ、静は雪の吉野山に迷い、やがて捕らえられ、鎌倉に送られた。
 義経の子を身篭っていた静は鶴岡八幡宮の回廊に召し出され、頼朝夫妻の見守るなかで、「よし野山みねのしら雪ふみ分けて、いりにし人のあとぞこひしき」と別れ物の曲を歌い、和歌を吟じて「しづやしづしづのだまきくり返し 昔を今になすよしもがな」と義経への思いを舞った。そして四ヵ月後、静は赤子を産む。「たとえ男の子たりとも女の子になし給え」との母・磯の禅師の祈りはむなしかった。男の子ならば殺される運命にあった。赤子は由比ケ浜に捨てられた。
 この年、郷御前もまた義経の娘を産んだと見られる。彼女は都にひそんだ義経と再会する。義経は比叡山を頼り、叡山の悪僧たちに守られ、山伏姿に身をやつし、郷御前は稚児姿に化けて、北陸路を行く。彼女がいつ身ふたつになったかは不明だが、『義経記』には、旅の途中、羽前国の亀割山で義経の女がお産をしたと出てくる。

2、「日本史にみる 女の愛と生き方」 永井路子 新潮文庫 1983年
 東国の女らしい、ひたむきさ、といったらいいだろうか。羽振りのいいときは、義経に群がっていた女たちが、一人減り、二人減ったあとも、じっと黙って彼女はその後に従っていたのであろう。
 なお、のちに義経が平泉で殺されるときに、その妻と女の子が一緒に死んだ、と「吾妻鑑」は書いている。「吾妻鑑」が義経の妻と認めているのは河越氏の娘しかいないから(静の事は妾と書いて区別している)このとき死んだのは、多分彼女だったのではないかと思う。  頼朝には憎まれ、さらに夫の義経は無類の女好き、さまざまの女を侍らせている中で、じっと耐えて来た彼女。そしておそらく義経と死をともにしたのは、彼女ひとりだったのではないだろうか。
 彼女が美人であったかどうか、これは全く史料がない。あるいは田舎育ちの垢ぬけのしない娘ではなかったかとも思う。しかし、そのひたむきさを買って、日本の美女の一人に入れてやりたいという気がしている。

「埼玉の女たち」 韮塚一三郎 さきたま出版会 1979年
しかし、大物浦での難破にあって、不幸彼女は義経とはなればなれになってしまった。彼女がどこから義経と行を共にして平泉に入ったかわからない。ただ文治三年(1187)二月十日の奥州落ちの條に、
 「妻室男女を相具して、皆姿を山臥(やまぶし)ならびに児童等に仮ると云々」
と、あるから、北国の雪解けをまって、秀衡のもとに義経とともに落ちのびていったことは、まずまちがいあるまい。
 彼女は、ここへ来てはじめて妻の座を知った。しかし、このころには彼女の父河越重頼や、その一族は、ことごとく、幕府に取り潰されていた。そして既にのべたように秀衡が忽然として死ぬと、頼朝は泰衡追討の宣旨を請いうけ、
 「義経を、差し出すか、朝敵たるか」
と責めたて、遂に泰衡は義経の衣川の館へ不意討ちをかけ、義経を自刃に追いこんだ。義経は持仏堂に入り彼女と四歳になる女の子を殺し、堂に火を放って自害を遂げたのである。
 持仏堂はやがて人を寄せつけない大紅蓮と化した。
 おもえば彼女は、封建制成立の陰にひそかに人知れず咲いた白百合の如く、清らかな貞女として、そのつらい立場と、孤独にたえて、不運にもめげず、薄命の生涯を遂げた。そのいちずさは、みごとであり、まことに美しいといわねばなるまい。
 最後に、義経と彼女が悲壮の最期を遂げた衣川館(高館、義経館ともいう。)は、今どうなっているのだろうか。  平泉の中尊寺を訪れる者は、坂下の参道の入口に立つであろう。ここでうしろをふりかえってみると、東方に小山のような丘陵を望むことができる。これが衣川館の跡である。この旧跡も、今は流れをかえた北上川に山を削られて、昔の俤(おもかげ)を失っている。しかし丘の上には元和二年(1617)伊達綱村が建立した小さな草ぶきの義経堂が建っていて、わずかに尚古の人の心をいやしてくれる。

3、「河越氏とその館跡」 小泉功 聚海書林 1986年
… ‥ … ‥
 頼朝は奥州藤原氏に度重なる威嚇を行い、その圧力についに屈した泰衡は、文治五年(1189)四月三十日、衣川館の義経主従を襲撃する。衆寡敵せず、義経は高館の持仏堂に立て籠って、妻(河越殿・重頼の息女)と四歳になる娘を殺した後、自らも命を絶った。波瀾に富んだ三十一年の生涯であった。
 頼朝の推挙によって、人見御供のように正室として送りこまれた重頼の娘も、義経の心に動かされ、地獄の底までついて行きたいと離れず、奥州平泉まで五年という短い結婚生活に終止符をうち、娘と共に二十二歳の生涯を閉じたのである。高館の雲際寺に三人の霊を供養した位牌が保存されている。
 なお、『吾妻鏡』によると、義経の首級は、黒漆の櫃に納められ、美酒に浸して腐敗を防ぎ、六月十三日に泰衡の使者、新田冠者高衡により腰越の浦に持参され、鎌倉方から和田義盛と梶原景時が首実験に出向いている。
 この悲惨にして悲運な最期に涙を流さぬものはなかったといわれる。

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埼玉県営鉄道関連

かって霞ヶ関駅からは鉄道が伸びていた。
 その幻の鉄道は、1920年入間川の川砂利を運搬するのが目的の専用鉄道として民間で敷設された路線だった。
その後、埼玉県が買収し「埼玉県営鉄道」として運営し、霞ヶ関駅から同市的場地内の入間川河川敷を結んだ営業路線距離2.4km、霞ヶ関駅(当時は的場駅と呼称)から先は途中川越線をアンダークロスする以外には、特に施設らしい施設もなく、ひたすら田畑の中を南へ下り、入間川に横付けするように河川敷の砂利採取場へ入っていた。
 霞ヶ関駅には川越寄りに専用の側線と砂利集積場が用意され、そこに県営鉄道が接続される形になっていた。
「埼玉県営鉄道」では、最後の数年間を除いて蒸気機関車が用いられていた。全部で3両の在籍が確認されているが、最後まで残ったのは2両であった。蒸気機関車の廃車後、廃止まで2両の内燃機関車を用いていた。
 貨車は小型のトロッコが160両ほど在り、小さな正方形の台枠に頑丈な木箱を乗せただけの簡便なものであった。
 県営砂利採取事業は、戦後になると枯渇を起こす採取場も出始め、当線が使っていた採取場がまさにそれで、採掘量が減ったために、鉄道を使うまでもなくなって次第にトラック輸送へ移行し、鉄道による運搬は漸減した。
 砂利採取事務所は1957年に当線の廃止を決定し、「埼玉県営鉄道」はひっそりと35年間の歴史に幕を下ろすことになったのである。1970年11月1日に廃止された。
 その後の霞ヶ関・的場地区の急速な住宅地化により廃線跡は完全に消滅しており、霞ヶ関駅の側線が「かすみ自動車教習所」の敷地の一部となっている、ということ以外には満足に跡地を比定できない状態である。川越線をアンダークロスしていた部分のコンクリートのガードが現役で残されているのが唯一の遺構である。 (高宮さん提供資料)

参考文献 ウィキペディア他

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霞ヶ関駅と的場駅

大正5年開通の霞ヶ関駅
現在の東武東上線は、山梨県出身でいわゆる甲州財閥の巨頭といわれた根津嘉一郎等が発起人となって創立された東上鉄道会社(資本金四百五十万円)によって完成されたものである。
大正元年(1912)十一月に工事が開始され、第一期線として池袋〜田面沢(たのもさわ)間が同三年五月に開通した。田面沢というのは小室、今成、小ケ谷、野田新田の各村と野田村の一部が合併して出来た村名で、昭和十四年に川越市へ合併されるまでこの名があり、小ケ谷に駅を設置したのでつけられた駅名である。しかし後にはこの駅は廃止されたので現在は残っていない。
現在の霞ヶ関駅は第二期線として、大正五年(1916)十月二七日に開通したものだが、最初の駅名は「的場駅」と称した。的場の有力者だった富田仁平次、水村喜平治、岸弥吉等が熱心な誘致運動を行い、駅の敷地を字的場だけで資金を出し合って購入し、会社へ提供して現在の場所へ設置させたものだという。
最初会社の路線案はずっと名細村字上戸の方へ寄っていたというが、この案だと上戸の者たちの居宅を移転させなければならないのと、的場のものが熱心に働きかけたので、的場の現在の場所へ決定したものである。このように霞ヶ関村全体でなく、字的場の者だけで運動してできた駅なので、駅名も当然「的場」となったわけである。
水村氏や富田氏等的場の有力者が鉄道の誘致に熱心だったのは、川越が鉄道の開通に消極的だったために次第に町が衰退していくのをまのあたりに見てきたこともあるが、当時的場周辺は養蚕、織物、茶業、製糸などが盛んで、それらを背景にして的場銀行を経営していたため、八王子の織物商人たちと取引があったことがあげられている。
八王子の商人たちは自ら鉄道会社甲武鉄道を創設して明治二十二年(1889)八月に新宿〜立川〜八王子間を開通させて、現在でも「八王子街道」の名前が残っているとおり、それまで川越方面を経由して、荷物を送り出していたのを東京へ直接出すようにしてしまったのである。現在のJR中央線の前身である。
彼らは会うたびに「これからの商いは、鉄道と電信だ」といわれ、鉄道の建設を熱心にすすめたので、積極的な誘致運動をするようになったとも聞いている。開通式には砂利採取を行っていた木村組の松田氏が川越から芸者を大勢呼んで賑やかに行ったという。
駅名変更に筵旗で抗議
ところが笠幡に霞ヶ関カンツリー倶楽部が設立されると、鉄道の方では昭和五年一月十四日より駅名を的場から「霞ヶ関」とかってに換えてしまった。
理由については確実なことはわからないが、社長の根津嘉一郎が上記倶楽部の有力会員だったため、的場よりも倶楽部の名称にいただいた霞ヶ関という村名の方がゴルフをやりにくる会員にわかりやすいと判断したからとも、当時は西武鉄道の入間川駅を利用する会員もかなりいたのでそちらへお客をとられないようにゴルフ場のある村名をとって駅名にしたとも、いろいろに伝えられている。
しかし駅の敷地を購入してまでも会社へ提供した的場のものにとっては、煮え湯を飲まされたようなものだ。かんかんに怒った的場の、特に血気盛んな青年団は、筵旗を押し立てたりビラを作って配ったりして鉄道や倶楽部の創立者の一人である発智庄平等に抗議した。
ビラには「発智父子を葬れ!」「彼に黄金の力あれば、我に正義の剣(つるぎ)あり」の激烈な文字が書き連ねられ、発智氏の家があった笠幡字倉ケ谷戸の家の前で、配ったりして気勢をあげたりした。警察でも捨てておくわけに行かず、とりあえず「葬れ」と「剣」ということばは不穏当なので、使用しないようにと注意したので、青年団も筵旗やビラから削除した。
的場のものから糾弾された「発智父子」は駅の改名には、ある程度は関係していたかもしれないが、先に述べたとおり積極的には参加していなかったらしい。しかし的場の者からみればゴルフ場を誘致し、個人で多額の資材を投入して完成させたことは事実なので、上記のように的場の者から憤激を受けたものであろう。
鉄道のほうでは一度改名したものは、そう簡単に元へもどすわけにもいかずしばらく静観していたが、そのうちに反対運動も鎮静化してきたのでほっとしたそうである。
川越線昭和十五年に開通
国鉄川越線が全線開通したのは昭和十五年七月二十二日と、本市を通っている鉄道の中では新しいが、計画の段階からみるとかなり古くから考えられていた路線だった。
最初は市内大字豊田新田出身の衆議院議員福田久松が明治三十四年(1901)第十五議会に、大宮〜川越〜八王子間に鉄道連絡を実現すべき旨の建議を提出しようとして、川越町で川越商工会議所の中に「大宮・八王子間鉄道連絡ニ関スル件調査委員会」を設置して検討を始めた。
しかしこの時は時期を得ていないということで見送られ、むしろ成田鉄道会社で建設中の成田〜吾孫子間の第一期線に続いて、第二期線として予定されていた吾孫子〜川越間の実現を早期にはかるべきであるとされ、「吾孫子川越間鉄道速成ニ関スル意見書」を提出したのである。
しかしこの第二期線は結局実現しないで終わってしまった。その後大正期に入り国鉄八高線の敷設が計画されたのを契機にして、大宮と八王子を結ぶ国鉄線敷設運動が高まったのである。昭和に入るとさらに高まり昭和二年十一月国有鉄道敷設期成同盟会が川越市、川越商工会議所、川越商工会を中心に結成され、全市一丸となって取り組むことになったのである。
かって川越は鉄道建設には極めて消極的で、前記のように福田久松が努力したにもかかわらず積極的な対応をとらなかったが、今度全市を上げて国鉄線開通実現へ向けて進むことになったわけである。
政府や鉄道当局もこうした地元の熱心な運動に耳を傾けるようになったが、特に陸軍が国防上の見地からこの路線を注目するようになった。東海道線が敵の艦砲射撃や爆弾で寸断されたとき、速やかに内陸部へ武器・弾薬・兵員を輸送するためには、川越を中間地点として大宮と八高線を結ぶ鉄道路線が是非とも必要だと判断されるようになったからである。
直ちに第六議会(昭和八年十二月二十六日〜九年三月二十五日)にこの鉄道の建設案は上程され、もちろん両院を通過した。こうして国鉄線を一本でもよいから敷設したいという、川越経済界の願いは達せられたのである。
昭和九年から用地買収にかかり十二年度中に完成する予定だったが、川越から八高線にいたる路線の位置が、沿線の村々の利害がからんでなかなか決まらなかったため、大幅に遅れてしまい最終的に高麗川まで開通したのは、最初に述べたように昭和十五年だった。
水没した的場駅
こうして霞ヶ関村には的場駅と笠幡駅の二つの駅ができた。この当時は現在と違って沿線住民の意見を聞いたり詳しく調査したりせず、いわば地図の上へ線を引いてその該当部分を買収して、線路を設置していくというやり方だったから何かとトラブルがあった。
とくに的場駅は的場でも一番の低地で、地元の人々が排水施設のない当時としては、駅を設置するのは地形的に不適当だと関係者に何回も勧告したが、全然取り合おうとせず「軍の至上命令だ」とか「工期が遅れた」とか言って予定通り強行してしまった。
ところが開通した翌年の昭和十六年、川越地方は記録的な大洪水に見舞われた。平塚や平塚新田が全部水没してしまったときである。すり鉢の底のような所へ作った駅は、すっぽり水面の下になってしまいもちろん列車は通れない。平塚新田など他の地域はどんどん水が引いていくのに、的場駅付近はいつまでたっても一向に引かない。船でなくては往来できなくなってしまった。
周辺の家もすっかり水没してしまい、中には蔵の中へも水が入ってしまい四十年もたった現在でも中が湿っていて使えないものもあるという。霞ヶ関村では鉄道省へ何回も陳情して、一日も早く恒久的な排水施設の設置を要望した。国鉄でも開通後わずか一年で、水没して使えなくなるようでは、軍事的性格の強い路線なだけに由々しい問題である。
さっそく関係者を糾合して調査し、直径一mぐらいの大きな鉄管を敷設して排水路を作り、やっとのことで溜まっていた水を排水できたのである。川越線は「川越に国鉄線を」という
川越市民多年の願望がかなえられた鉄道だったが、成立のいきさつが軍事面のウエートが大きかったから聊(いささ)か速成の感があり、上記のように水没してしまったり、古谷本郷では寺の真中へ線路を通して墓地と本堂を分割してしまったからか、夜な夜なお化けがでるといううわさがたって近くの灌頂院で法要を営むさわぎとなったりして、なにかとトラブルがたえなかった路線だった。

参考資料
川越の歴史散歩 霞ヶ関・名細編  新井博著

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霞ヶ関駅北口竣工式典


2006.7.15日に霞ヶ関北口竣工の祈念式典がありました。
式典のアトラクションでの圧巻は、徳島県阿波踊り協会所属の 埼玉支部の阿波踊りでした。
阿波踊りで珍しかったのは、歌舞伎の見得を切るのとよく似た、 所作、口上があり、やんやの拍手で大いに盛り上がりました。

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河越館と常楽寺

河越館史跡
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河越館史跡は、平安時代末期から南北朝時代にかけて武蔵国で最大の勢力であった河越氏の館の跡である。
武蔵国在庁筆頭格として、鎌倉幕府の有力御家人であった河越太郎重頼のとき、源頼朝に重用され、その娘(京姫)が源義経の正室となったが、義経没落の際に誅殺された。
しかし、その後も重頼の三男重員が武蔵国留守所総検校職として重用され、河越館は、河越氏の居館としてだけではなく、幕府の武蔵国政庁として機能していた。
河越氏は、応安元年(1368年)武蔵平一揆以降没落した。
なお、1984年に河越館跡の名称で国の史跡に指定され、2009年には河越館跡史跡公園としてオープンした。

常楽寺
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河越館史跡の一角にある常楽寺は、河越氏の持仏堂が基になって発展した時宗の寺院である。応安元年(1368年)の武蔵平一揆で河越氏が滅んだ後、15世紀には扇谷上杉家の河越城を攻略するため、山内上杉家の上杉顕定がここに7年間陣所を置いた(上戸陣)。
後北条氏が川越を支配すると重臣の大道寺政繁が領主になったが豊臣秀吉の小田原征伐に屈し、秀吉の命で大道寺政繁はこの地で自害した。
寺には、大道寺政繁の供養塔がある。また、河越太郎重頼、京姫、源義経の供養塔がある。

(資料提供 鈴木氏)

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二枚の古い絵図から見えるものは?   200年前の上戸新町周辺の情景 

歴史本の中に二枚の古い絵図がありました。
そこには、上戸新町周辺地の江戸時代の情景が描かれていたので、大いに興味をそそられるものでした。
そこに描かれていたのは、「的場古墳群」「常楽寺境内之図」であり、「新編武蔵国風土記稿」という本から転写されたものでした。
その本は、徳川幕府が直撰昌平坂学問所地理局(林大学頭)に命じて文政、文化(1804〜1829年)の頃、各村に地誌取調書上を提出させたうえ、実地に出向いて調査し実証的に編纂された地誌のことです。

絵図その一、「新編武蔵国風土記稿」【的場村】より「的場古墳群の図」
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場所の名称
左頁上的場村  左頁中牛塚 左頁下初雁池
右頁上左から的場ムラ 法城寺 天神社
右頁下  三芳野塚

牛塚
「三芳野塚ノ西二丁許ヲ隔テテ畠中ニアリ。周回十四五間。高サ二三間ナリ。里人相伝フ、上戸ノ城主某全盛ノ日此辺ハ放牛ノ地ナリシニ、ソノ頃牛ノ斃セシヲ埋メシ所ナリト云イ此外旗塚ト称スルモノ及ビ無名ノ塚凡三十バカリ畠ニアリ、土人モソノ所以ヲ知ラズト。」
(新編武蔵国風土記稿の記述より)
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絵図その二、「新編武蔵国風土記稿」より「常楽寺境内之図」
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「コノ寺ヲ称シテ三芳野道場ト云フ川越城ノ旧跡ナリ、又大道寺駿河守(政繁)砦ノ跡ナリトモ云フ・・・」。
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絵図はご覧の鳥瞰図となっており、地図とは違って正確な距離は測れないものですが、現代の場所がどこにあたるのか、調べてみました。
絵図その一「的場古墳群」には、的場村にあったと伝えられてきた、牛塚と三芳野塚などが描かれております。 当時の【的場村】は新編武蔵国風土記稿よると。
「的場村ハ郡ノ東ニアリテ入間郡界ナリ。相伝子大導寺駿河守コノ隣里上戸ニ館在リシ頃、是辺ニ弓、鉄砲ノ的場アリシト、今モ猶的塚ト云フモノアリ、故ニ村名トセシト云フ。又此地ハ当国ノ名蹟三芳野之里ニテ、今モ小名ニ三芳野ト呼べル所アリ。又三芳野塚モ残レリ、元ヨリ此辺之村里スベテ三芳之郷ノ唱アリ、江戸ヨリ十二里ノ行程ナリ、四境、東ハ入間川ヲ界トシ対岸ハ入間郡池辺村、小ケ谷村ナリ、西ハ当郡笠幡村ニ隣リ、南ハ安比奈新田ニ続キ、北ハ上戸村ニ接ス。東西凡一里、南北三十町許、地形西ハ山アリテ高ク、東ハ漸ク低クシテ田畠アリ、民家百八十、ソノ際ニ散在ス。陸田ハ三分水田ハ二分、ソノ余ハ原野山林等ナリ、・・云々」
この地域一帯は往時「三芳野の里」と呼ばれ、在原業平作の伊勢物語にも登場し、都にも知られた名勝の地でもありました。
三芳野塚は、大正15年(1916)に霞ヶ関駅開設工事で土砂を取るために破壊され、今では東急ニュータウンが建設されて住宅地となっています。
なお三芳野里旧跡之碑が建立されて、市立霞ヶ関東小学校の内にあります。
牛塚は現在の牛塚古墳のことであり、場所は東京国際大学第二キャンパス裏の近く、JR川越線脇の畑の中に在ります。、川越市内最大の前方後円墳で、全長47メートル、高さ4メートル大きさの小高い墳丘になっています。

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現在の三芳野旧跡之碑 現在の牛塚古墳

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絵図その二、常楽寺境内之図は、土塁の位置などから、もとより現在の場所で間違いないように思われます。
当時の【上ハ戸村】は「新編武蔵国風土記稿」によると。
「モト上八戸村ト書キシガ、今ハ上ハ戸村トス、郡ノ東ヨリ入間ノ郡界ニテ即チ入間川西岸ニアリ。今ノ川越城ヨリ一里許リヲ隔テ西ニ当レリ、モト川越三芳野里ト云ルハ、コノ上ハ戸・的場村等ヲサシテ云ウ、江戸ヨリ十二里ノ行程ナリ。東西七町余、南北モ五町ニ余レリ、平坦ノ地ニシテ民戸三十一所々ニ散在ス。陸田ノミニテ水田ナシ。村中一條ノ往還カカレリ秩父ヨリ川越ヘ通路ニテ、西ノ方的場村ヨリ来リ、東ノ方入間郡上寺山村ニ達ス。路幅二三間。此村ハ名蹤舊地ト聞ユレド、今ハ昔ト異ニシテ一区ノ小村タレバ小名ナドモナク、里正モ定メルナシト。村ノ西ニ僅ノ新田アリ。」
(参考)当時の周辺の村の戸数。 的場村180戸、笠幡村227戸

絵図にある的場村や常楽寺の周りには、区画された田の情景が拡がっており、現代の発掘遺跡に見られる群落遺構の存在からは想像もできません。この地が旧い群落時代から、入間川や子畔川に大いに関わり、氾濫や流路の変化に翻弄されながら、永い年月を経過してきたことがわかります。
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昭和48年霞ヶ関遺跡発掘現場
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地図の中の囲んだところが、二枚の絵図に当たる場所で、上戸新町は二枚の絵図に南北から挟まれています。

絵図や当時の村の記述を参考にして、約二百年前の上戸新町の情景をイメージ出来ませんか?それぞれが想い描いた、江戸時代の上戸新町にタイムスリップしてみて下さい。


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東山道武蔵路

昔々(奈良時代),東山道武蔵路という当時の一級国道が武蔵国を南北に縦断して作られていました。この道は幅が12mもあり、上戸新町の近くを通っていたそうです。関東地方の当時の道路図を示します。

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 古代の地理的行政区分として、畿内五国に、東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の五畿七道がありました。
 また七道は地域呼称であると同時に、都から地方に伸びる道路の名称でもあったのです。
このような行政区は天武朝(672〜686)頃に成立したと考えられているようで、当時の都は飛鳥浄御原宮でした。
 東山道は都から東の山間部の行政区とその官道をいいます。平安時代の『延喜式』によると、東山道に属する国は、近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽の八カ国です。
 武蔵国は『延喜式』では東海道に属していますが、奈良時代の宝亀2年(771)に東山道から東海道に所属替えされたことが、『続日本紀』の記事で確認されています。
 武蔵国が奈良時代の末期以前には東山道に属していたことから、武蔵国は東山道経由で都と繋がれていたわけなのです。この東山道時代の武蔵国への官道(駅路)を当時どのように呼ばれていたかはわかりませんが、現在では「東山道武蔵路」と一般に呼ばれています。
 図にある様に東山道武蔵路は上野国の新田駅付近から本道と分かれて邑楽郡(おうらぐん)を通り武蔵国に入ります。
 そして五つの駅家を経て武蔵国府に到り、再び同ルートを北上して下野国足利駅で東山道に合流したものと考えられています。上野国新田駅より武蔵国府中まで、この間の距離約80キロメートルです。
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東山道武蔵路の遺構

 前図の東山道武蔵路の中で武蔵国府から北へ最初の駅家の遺跡が「東の上遺跡」です。「東の上遺跡」は所沢市内を流れる柳瀬川の左岸台地上にあり、南住吉・久米地区に広がる30万平方メートルに及ぶ大遺跡です。
 旧石器時代から古代・中世に至る複合遺跡で、平成元年(1989)の第36次調査で、南陵中学グラウンドから全長100メートルの直線道路遺構が発見されました。

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この道路遺構は、両側に側溝をともない、側溝間の芯々距離12メートルです。道路遺構は過去に確認されたものと合わせると総延長は300メートルに達し、走行方向は真北に対して約10度西に傾いています。
側溝は長い土坑が連続して、幅約1メートルほどに統一されていて直線性を維持し両側溝は平行を保っています。出土遺物から道路の築造年代は7世紀第4四半期と考えられているようです。
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八幡前・若宮遺跡

我が上戸新町から南西約1.5キロメートルに「八幡前・若宮遺跡」があります。
平成5年(1993)に、この付近でアパート建設に伴う遺跡の発掘調査が行われました。そして、あまり注目されたことのないこの土地の遺跡から古代駅路の駅屋跡を想定させる遺物が発見されました。その結果、この付近に武蔵国府から三番目の駅家があったとされ、東山道武蔵路のルートもわかってきました。その想定されている東山道武蔵路のルートを示します。

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右上が上戸新町。
左下が八幡前・若宮遺跡。
中方の赤いラインが東山道武蔵路。
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八幡前・若宮遺跡からは「驛長」と書かれた墨書土器が出土しました。驛長とは駅家を管理する長のことで、その驛長が使用した土器と思われます。

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遺跡の調査範囲は狭いながらも土坑群・井戸・竪穴住居・掘立柱建物・柱穴列などが確認されています。奈良時代の土坑群から出土したのが「驛長」と書かれた土師器杯です。 その他にも開口部の直径が10メートルもある井戸跡では、出土遺物から奈良時代から平安時代までの200年間も使用されたことがわかり、この井戸からは関東ではあまり出土例が少ない木簡が発見されていて、この木簡は酒造りに係わる珍しいものだそうです。 ここは所沢市の東の上遺跡から16キロのところに位置していて、「驛長」の墨書土器や大きな井戸などにより、この付近に武蔵国府から三番目の駅家があったと想定されています。

*驛長とは、中央と地方の間の情報伝達のために設けられた緊急通信制度である駅制によって、国の官路である駅路にそって30里(約16キロ)ごとにおかれた駅家の長のことです。駅家を利用する国の使者である駅使は、駅家で食事・休息・宿泊のサービスを受け、馬の供給を受けました。

今までご紹介してきたように、1300年も前に幅12メートルの道路が、上戸新町のすぐ傍を通っており、朝廷の役人や、諸国の使者、一般の人々が足しげく通行していたようです。我々の悪い癖で、古い時代ほど不自由な生活をしていたと思いがちですが、道路に関しては、明治以前では一番整備されていたようです。当時を思うと古代のロマンにひたれるようです。

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